フィンチのお気持ち表明板

ブログと日記の狭間

6月20日

ワルシャワ中央駅近くのスタバで、苺とアサイーの清涼飲料を注文。窓の外、通りの街路樹の枝に生い茂った緑の葉の隙間から、遅い午後の陽の光が差し込んでくる。日曜、店内は人もまばらで、1時間くらい、自分の席のそばには大きなスーツケースを持った黒髪のロシア語を喋る女性がずっと一人座っているほか、客の流動がない。昨日と今日、気温は30℃に達した。ツイッターを開けば、在欧邦人アカウントが盛んに小型冷房機の話をしている。

 

25日に、病理の最終試験。それから1週間後の微生物を片付ければ、夏休みだ。今年の夏は、どんな夏になるだろうか。実は最近、なんとなくデートを始めた人がいて、諸々の事情で彼とは長期的な関係になる可能性は低いのだけれど、それでも日本に帰って暇するくらいなら、この夏はワルシャワに留まってその人と共に時間を過ごすのもアリかもしれない、と思い始めた。彼は、8月にある私の誕生日のことも気にかけてくれている風情だし。

 

色々な人間模様のなかに身を置いて、それなりに、家を訪ねあったり一緒にレストランで食事をしたりする友達や、デートの相手がいても、時折ふっと、孤独感に苛まされる。最近、とくにそうだ。もしかしたら、ほぼほぼ短期的関係にしかなり得ない相手と刹那的にデートしたりするのは、やっぱり自分に向いてないのかもしれない。そんなことをしても、本当に自分と芯から誠実に向き合ってくれる誰かが、今の自分の人生に不足しているということが、浮き彫りになるだけ。

 

それでも私は、一人で飄々としていられるほど強くない。何か自分の青春の遅れを取り戻そうとするような気持ちと、残された若い時間の少なさに対する焦りに急かされて、半ば強迫的に、夏の間のスケジュールを埋めようと躍起になってる。そのためなら、柄でもなく異性と一時的にデートするのだって、選択肢の一つだと思ってさえいる。

 

いつからか、生来の自閉的な性格と学校にあまり行かず育った経歴のせいで、自分は同年代の定型的な人たちと比べて、色々な面であるべき水準に達していない、という負い目のようなものを常に意識するようになった。もっと普通にならなきゃ。そう思いながら生きてきた。だから去年の夏、初めて恋人ができたとき、それが幸せだったのは、自分もついに他人様と交際できるくらいには「人並み」になったのかもしれない、と感じられたから。結局、彼との関係は、一年と続かなかったけど。

 

でも、私が「あるべき水準」「普通」「人並み」という言葉を並べ立てているとき、それは往々にして、対人関係にまつわる自分のスキルや現状について考えているときだったりする。それが、自分の10代の頃に、最も大きく欠落していたものだから。ただ、最近ふと思ったのは、自分はもしかしたら、あまりにその負い目を意識するあまり、人生を構成する様々な要素のうちでも、友達・恋人(との関係、または彼らと共にする活動)ばかりに囚われすぎて、ともすると、他の物事を疎かにしがちなのではないか、ということ。

 

自立とはより多くの依存先をつくること、とよく言うけれど、最近の自分は、自分の精神的均衡を保つための依存先のあまりの大部分を、誰かとの関係に求めすぎているかもしれない。もっと他にも、趣味、語学、医学の勉強(本業!)と、今の自分が気にすることのできる物事は、沢山あるだろうに。自分を取り巻く人間模様のいちいちに、一喜一憂し、心理的に振り回される程度を減らすには、人間以外のことに目を向けるしかない。自分の抱える諸々のなかで、人間関係が占める割合を、減らしていった方が、より健康的だと思う。それに趣味も語学も勉強も、きちんと向き合えば、その分自分に磨きがかかって、巡りめぐって、人との出会いや関係にも良い影響を及ぼすだろう。

 

この夏をどんな夏にしようか。そう考えたとき、たぶん、理想としては、依存先を開拓し耕すことに、今までより少しでも注力できれば良いんだと思う。音楽や乗馬、英語・ポーランド語、それから後々の国試を見据えた医学の勉強。運転免許を取るのもアリだな。その傍らで、誰かといくつか、素敵な思い出を作れればいい。